高橋 賢次 (妹尾)
高橋 賢次 (たかはし けんじ)
所属:妹尾道場
2011年6月26日昇段
自営業(高橋製作所)
2002年12月3日入会(空手暦9年3ヶ月)
9年前に妹尾道場に入会。水島や倉敷道場にも参加し、世代を超えたムードメーカーとして道場を盛り上げてくれています。初めての昇段審査では再審査となりましたが、4年を経た再審査では見事な組手をみせてくれました。イベントの裏方としても協力してくれ、今後も道場を支えてくれることを期待しています。

~日々堅忍不抜の精神で精進していきたい~
この度は空手修業の新しき門出となる昇段をお許しいただき、ありがとうございました。私は子供の頃、TVや雑誌等で空手バカ一代を読みふけっていた世代です。当時16歳の私は友人に、「極真空手を習いに行こう」と誘われたのですが、私は青春のすべてを大好きな車やバイクに注ぎ込んでいました。
やがて結婚し、子供も生まれ、仕事と育児に追われる中、ふと「あ~、なんか足らない」と思うようになっていました。タウン情報を手に取り、アスリート道場に電話、妹尾道場へ見学に行くと、そこには当時師範代であった藤島先生がおられました。私は藤島先生の巧妙な話術に魂を乗っ取られ、その場で入会を決意したのでした。
緑帯の頃までは楽しく空手を学ばせていただきましたが、茶帯を締めた頃から、上級者としての責務を努めなければならなくなった私にだんだんと目に見えぬプレッシャーが軽く、時々重くのしかかってきました。
私は白帯の頃から大会や行事があるごとに出向いてはスタッフやお手伝いを欠かしたことがありませんでしたが、それだけではなく、先生が伝えたかったのは、集団の中の個にあらず、集団の中の先頭に立て、後輩の見本たれと、言いたかったんだと勝手に思っています。


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そんな茶帯ライフを楽しく過ごしていると、当時倉敷道場で稽古をしていた同輩の田中さんから「昇段審査を一緒に受けませんか!?」と声をかけられ、「押忍、やりましょう」と返事をしました。今思うと、誰かに昇段の声をかけて背中を押してほしかったんだと思います。それからの4ヶ月半は自分史上ありえないほどキツイ鍛錬の日々が続きました。そんな中、仲間のみんなは我が事の様に快く交互にミットを持ってくれたり、タイムキーパーやアドバイスを真剣な面持ちでやってくれました。
審査当日。張り詰めた空気の中、程よく緊張した自分はたぶんそつなく型審査までを終え、あとは最大のヤマ場十人組手を残すばかりとなりました。一人二人と組手が進むにつれ、対戦相手から受けたダメージと心肺の疲労から思い通りに動けず、それでも気持ちだけは前へ前へ向いていました。仲間の励ましの声援や掛け声がとても嬉しく思えました。最後の対戦相手との組手を終え、何とか倒れずに終えることができたと安堵していると道場生や仲間が「よく頑張ったな!」っと声をかけてくれました。その瞬間、嬉しさのあまり、滝のように涙があふれてきました。
しかし、結果不合格。私にとって受け入れがたいものでしたが、一旦下りた決定は二度と覆せません。それからの四年間、私は暗闇の中を七転八倒しながらもがき続けました。夜中に何度飛び起き、うなされ、暴れ、やがて何事においても感動できなくなり、信用しなくなり、心も動きを止めてしまいました。そんな私を見るに見かねた妻と娘が、ある日ユニクロで黒のベルトを買って来てくれました。彼女達なりの気配りでしょう。娘が言ってくれました。「私は緑帯でやめたけど、父さんは昇段審査を受けられただけですごいよ。胸を張って!」と…。
時折道場に顔を出すも、後輩達の黒帯を見、落ち込むのが嫌で自然と道場に顔を出すのが嫌になっていました。


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しかし、このままでは自分の気持ち、存在までもが風化してしまうことになる。それではいけない。“勝つまでやったら必ず勝てる”2011年の2月、片山先生に再審の意志を伝えました。
とにもかくにも今の身体を闘える体にしなければと思い、山本さんにコーチをお願いして、快く受諾していただきました。審査までは4ヶ月しかありません。短時間で仕上げる為にはそれなりの強度を必要です。稽古のたびに小松原初段と組手をし、今の自分の身体の状態を見極めるようにしました。復帰後間もない頃はそれはひどいもので、上段は止めてもらうは、中段はもらうは、足払いでこけるは、みんなの前で散々な赤っ恥をかきましたが、自主トレの打ち込みなどで、自分でも動きが変化していくのを感じることができるようになりました。
再審査当日…前回と違い、ものすごい肝がすわってる自分を感じました。対戦相手の波間さんや横山君、仲間や道場生の方が多々が私にエールをくれる中、気を引き締めました。
好きな技が相手にとって効かせられる技であるとは限らないと思い、今回は大好きな上段系足技は封印して、地道に下段と突きと中段の幸せ3点セットで闘うことに決めました。本戦・延長・再延長もなんとか最後まで攻めきれました。
審査も無事終わり、藤島師範に「十人組手と試合組手の両方を経験された受審者としてどう感じましたか?」と聞かれ、あわてて、「どちらも対戦相手の方に敬意を払える高いハードルです」と答えました。
空手を始めて9年、空手のかの字から帯の結び方、何もわからない私に気を配り、心魂尽くしていただき、手取り足取りここまで育てていただいて感謝しています。この経験を糧により良い空手人生を全うしていきたいと思います。黒帯の重さと責任を背負い、日々堅忍不抜の精神で精進していきたいと思っています。
押忍、ありがとうございました。
所属:妹尾道場
2011年6月26日昇段
自営業(高橋製作所)
2002年12月3日入会(空手暦9年3ヶ月)
9年前に妹尾道場に入会。水島や倉敷道場にも参加し、世代を超えたムードメーカーとして道場を盛り上げてくれています。初めての昇段審査では再審査となりましたが、4年を経た再審査では見事な組手をみせてくれました。イベントの裏方としても協力してくれ、今後も道場を支えてくれることを期待しています。

~日々堅忍不抜の精神で精進していきたい~
この度は空手修業の新しき門出となる昇段をお許しいただき、ありがとうございました。私は子供の頃、TVや雑誌等で空手バカ一代を読みふけっていた世代です。当時16歳の私は友人に、「極真空手を習いに行こう」と誘われたのですが、私は青春のすべてを大好きな車やバイクに注ぎ込んでいました。
やがて結婚し、子供も生まれ、仕事と育児に追われる中、ふと「あ~、なんか足らない」と思うようになっていました。タウン情報を手に取り、アスリート道場に電話、妹尾道場へ見学に行くと、そこには当時師範代であった藤島先生がおられました。私は藤島先生の巧妙な話術に魂を乗っ取られ、その場で入会を決意したのでした。
緑帯の頃までは楽しく空手を学ばせていただきましたが、茶帯を締めた頃から、上級者としての責務を努めなければならなくなった私にだんだんと目に見えぬプレッシャーが軽く、時々重くのしかかってきました。
私は白帯の頃から大会や行事があるごとに出向いてはスタッフやお手伝いを欠かしたことがありませんでしたが、それだけではなく、先生が伝えたかったのは、集団の中の個にあらず、集団の中の先頭に立て、後輩の見本たれと、言いたかったんだと勝手に思っています。


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そんな茶帯ライフを楽しく過ごしていると、当時倉敷道場で稽古をしていた同輩の田中さんから「昇段審査を一緒に受けませんか!?」と声をかけられ、「押忍、やりましょう」と返事をしました。今思うと、誰かに昇段の声をかけて背中を押してほしかったんだと思います。それからの4ヶ月半は自分史上ありえないほどキツイ鍛錬の日々が続きました。そんな中、仲間のみんなは我が事の様に快く交互にミットを持ってくれたり、タイムキーパーやアドバイスを真剣な面持ちでやってくれました。
審査当日。張り詰めた空気の中、程よく緊張した自分はたぶんそつなく型審査までを終え、あとは最大のヤマ場十人組手を残すばかりとなりました。一人二人と組手が進むにつれ、対戦相手から受けたダメージと心肺の疲労から思い通りに動けず、それでも気持ちだけは前へ前へ向いていました。仲間の励ましの声援や掛け声がとても嬉しく思えました。最後の対戦相手との組手を終え、何とか倒れずに終えることができたと安堵していると道場生や仲間が「よく頑張ったな!」っと声をかけてくれました。その瞬間、嬉しさのあまり、滝のように涙があふれてきました。
しかし、結果不合格。私にとって受け入れがたいものでしたが、一旦下りた決定は二度と覆せません。それからの四年間、私は暗闇の中を七転八倒しながらもがき続けました。夜中に何度飛び起き、うなされ、暴れ、やがて何事においても感動できなくなり、信用しなくなり、心も動きを止めてしまいました。そんな私を見るに見かねた妻と娘が、ある日ユニクロで黒のベルトを買って来てくれました。彼女達なりの気配りでしょう。娘が言ってくれました。「私は緑帯でやめたけど、父さんは昇段審査を受けられただけですごいよ。胸を張って!」と…。
時折道場に顔を出すも、後輩達の黒帯を見、落ち込むのが嫌で自然と道場に顔を出すのが嫌になっていました。


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しかし、このままでは自分の気持ち、存在までもが風化してしまうことになる。それではいけない。“勝つまでやったら必ず勝てる”2011年の2月、片山先生に再審の意志を伝えました。
とにもかくにも今の身体を闘える体にしなければと思い、山本さんにコーチをお願いして、快く受諾していただきました。審査までは4ヶ月しかありません。短時間で仕上げる為にはそれなりの強度を必要です。稽古のたびに小松原初段と組手をし、今の自分の身体の状態を見極めるようにしました。復帰後間もない頃はそれはひどいもので、上段は止めてもらうは、中段はもらうは、足払いでこけるは、みんなの前で散々な赤っ恥をかきましたが、自主トレの打ち込みなどで、自分でも動きが変化していくのを感じることができるようになりました。
再審査当日…前回と違い、ものすごい肝がすわってる自分を感じました。対戦相手の波間さんや横山君、仲間や道場生の方が多々が私にエールをくれる中、気を引き締めました。
好きな技が相手にとって効かせられる技であるとは限らないと思い、今回は大好きな上段系足技は封印して、地道に下段と突きと中段の幸せ3点セットで闘うことに決めました。本戦・延長・再延長もなんとか最後まで攻めきれました。
審査も無事終わり、藤島師範に「十人組手と試合組手の両方を経験された受審者としてどう感じましたか?」と聞かれ、あわてて、「どちらも対戦相手の方に敬意を払える高いハードルです」と答えました。
空手を始めて9年、空手のかの字から帯の結び方、何もわからない私に気を配り、心魂尽くしていただき、手取り足取りここまで育てていただいて感謝しています。この経験を糧により良い空手人生を全うしていきたいと思います。黒帯の重さと責任を背負い、日々堅忍不抜の精神で精進していきたいと思っています。
押忍、ありがとうございました。