沖縄から日本本土へ
沖縄から日本本土へ


当時は文字の通り、武器を持たず、手・足のみで身を護る技法と合わせて、棒や鎌など身近にある生活道具を利用して戦う方法も追求されていました。
手(ティー)は本来秘術でしたが、平安の型の創始者である、糸洲安恒(いとすあんこう)先生により戦時下における学校教育の一環として紹介され普及するようになりました。
日本本土で空手が普及するのは、大正時代(1916年)。後の松濤館流の創始者である船越義珍(ふなこしぎちん)先生の演武により紹介され、名称も唐手から空手と呼ぶようになりました。
この頃の稽古法は、型を繰り返し、あとは「巻藁(まきわら)」などの鍛錬具を突いたり、蹴るというものでした。
この、「型」により鍛錬する、方法は中国武術の影響で、中国では「套路(とうろ)」或いは「拳路(けんろ)」と言います。
本土では、それを物足りなく感じた若い学生たちが独自に相対して突き、蹴りによる攻防を研究し、やがて競技試合へと整備され現在に至っています。
組手競技の在り方などは常に議論されていますが、競技スポーツとして世界各地に普及し、愛好者人口はサッカーに次ぐという国際的な地位を確立しています。
写真は、日本本土に空手を広めた、舩越義珍先生。
極真空手の創始者である大山総裁がはじめて空手を習った先生です。