極真空手の型
極真空手の型


この頃は流派と呼ばれるものはなく、型の特色・伝承地名等にちなんで首里城を中心に発達したのを「首里手」、那覇港周辺に発達したものを「那覇手」と呼ばれていました。
いずれも現在の流派の概念をともなうものではなく、個人的な交流(相互に研究)もされながら、それぞれで技法(型)が継承されていました。
●首里手(松涛館流)
「首里手」は、中国の北方の地方で栄えた中国北派拳法の影響を強く受け、その技は柔軟性を重視し、遠い間合いからの直線的でスピーディーな攻撃を主体としています。
首里手の流れをくむ舩越義珍(ふなこし・ぎちん)先生が、文部省主催の演武会で空手(唐手)を披露したのは大正11年。同年、本土に移住し「松濤館(しょうとうかん)」という道場を開きます。
後に慶応義塾大学に空手部を創部。これがきっかけとなり各大学に次々と空手部が誕生します。
舩越先生は大山総裁が最初に空手を学んだ人物です。
●那覇手(剛柔会)
東恩納寛量(ひがおんな・かんりょう)先生が中国の福建省におもむいて達磨大師を発祥とする中国南派拳法を学び、帰国後に指導を行うようになったのが「那覇手」の始まりと言われています。
その直弟子の宮城長順(みやぎ・ちょうじゅん)先生は、中国で中国拳法を修行するように命じられ、多くの武術の達人達から学ぶとともに、古い文献、書籍などを研究しやがて剛柔流をあみ出しました。
大山総裁は、宮城先生の直弟子にあたる、山口剛玄先生に剛柔流を学びました。
●極真空手の型
極真空手の型の多くは松涛館 (首里手)と剛柔流 (那覇手)の型を基に大山総裁の体験的な思想を加え挙動の変更が行われています。
変更の理由には異なる系統の型を学びやすくするために、立ち方や手技などを統一して指導する必要性があったからではないかと推測されます。
極真空手独自の型は、回し蹴り等を取り入れた『臥龍』。また『撃砕小』、『十八(セーパイ)』、『観空』などの同名の型も伝統流派で行われる動作との違いは明らかなので創作型と言って差し支えありません。
多くのフルコンタクト系の流派が型不要論を唱えるなかで、大山総裁は型の重要性を語っていたといいます。
写真左は舩越先生…インテリだったそうです。
写真右は山口先生…いかにも一昔前の空手という感じです。