組手試合の普及

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Byblacksabbath1104

 
組手試合の普及

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空手のは日本本土での普及は、1916年以降になりますが、これ以前の稽古は、「型」を繰り返すだけで、あとは「巻藁」を突いたり、蹴ったり、或いは鍛練具を使って身体を練るというものだったそうです。
本土で空手を普及するためには、組手を競技化し武道スポーツとして確立することが必要と言われたため、様々な試みが行われました。組手の競技化には“実戦性”と“安全性”の両立という、矛盾をクリアーしなければなりません。
 ※沖縄の先生方は殆どは、実践的な技が疎かになるとして競技試合には反対していたそうです。
一部の道場や大学空手道部で「防具組手」が研究されましたが、当時は間に合わせ程度の材料しかなく危険だったため、次第に「寸止めルール」が主流になっていきました。
当てる寸前に技を止めるこのルールは年齢・性別を越えて取り組むことができるとして、国体の正式種目として採用されるなど多くの流派で用いられるようになりました。
空手競技とは『寸止め』として認められるようになっていきましたが、勝敗自体が明確ではないと、異議を唱える形で極真会館主催による直接打撃制組手試合(第一回全日本空手道選手権大会)が昭和44年(1969年)9月に、開催されました。
今でこそ、このルールは多くの流派にも普及し認知されていますが、当時は過激なルールといわれ非難を浴びました。
この直接打撃の組手試合の起源は大山総裁が所属していた剛柔会にあります。
本土の剛柔会では、独自に「防具組手」や「当て止め」というライトコンタクト空手が研究されており、大山総裁が学んでいた頃は、当てることが当たり前だったそうです。
後に剛柔会が寸止めルールに移行するため、対立し袂を分かち、昭和39年(1964年)、正式に極真会館をたち上げることになります。
現在、フルコンタクト空手と言われる流派だけでも把握しきれない程の数が存在するようになりましたが、創始の大山総裁は、空手だけでなく、格闘技界全体に於いて、大きな影響を与えていることは間違いのない事実といえます。
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